昔話ー章1ー第15

章1-第 15

 

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青の洞門(どうもん)

 

青の洞門

山国川(やまくにがわ)にのぞむ断崖の耶馬渓(やばけい)の競秀峰(きょうしゅうほう)は、むかしから交通の難所として知られていました。
 この絶壁の中腹に青のくさり渡しと言うのがあるのですが、岩壁に沿ってつながれた丸太の上をくさりを伝って渡る物なのです。
 樋田(ひだ)から青へ行くには、どうしても通らなければならない道で、今まで足を踏みはずして命を落とす人馬が数多くいました。
 これはこの絶壁に道を作った、二人の男のお話です。

 岩壁に、いつの頃からか、一人の僧が槌(つち)を振るっていました。
 僧の名は禅海(ぜんかい)といい、かつては江戸で中川四郎兵衛という武士の傭人(ようにん→やとわれた人)として仕える男でした。
 ところがある時、ささいな事で主人を殺してしまい、その罪滅ぼしに禅海という僧になって、諸国行脚(しょこくあんぎゃ)の旅に出たのです。
 四国の八十八カ所を巡り、九州、豊後の樋田村にたどり着いた禅海は、この絶壁のくさり渡しを見て、
「これこそが、求めておった道。罪を償うのは、ここしかない」
と、洞門を掘る決心をしたのです。
 享保二十年に最初の槌を振るって以来、禅海は毎日洞門を掘り続けました。
 最初は禅海を厄介者扱いしていた村人も、やがて禅海を応援する様になりました。
 そしてそれから五年たち、十年たち、ついに二十五年が過ぎたある日、一人の若者が禅海を探して青の洞門にやって来ました。
 その若者は禅海が殺した、中川四郎兵衛の長男の実之助(じつのすけ)だったのです。
 成長した実之助は、父の敵を討つ為にここにやって来たのです。
「お主が禅海か。以前の名を福原市九郎(ふくはらいちくろう)に相違あるまいか」
 実之助の声に、槌を打つ禅海の手が止まりました。
「いかにも。して、そこもとは」
「それがしは中川四郎兵衛の子、実之助と申す。二十五年前に殺された、父の仇を討ちに来た」
 そう言われて見れば、たしかに父の面影があります。
「おお、中川さまのご子息か。いかにも禅海、そこもとの父をあやめた市九郎に相違ありませぬ。じゃが、何とぞお待ち下され」
 禅海はそう言うと、実之助に深々と頭を下げました。
「なに! このごに及んで命ごいか!」
 怒鳴る実之助に、禅海は静かに言いました。
「いえ、命ごいではありませぬ。ただ、禅海が罪滅ぼしに掘っておる、この洞門が貫通するまでお待ちいただくわけにはいくまいか」
「罪滅ぼしか・・・。噂は聞いておる。では少しでも早く終わるよう、手伝ってやろう」
 その日から、禅海と並んで槌を振う実之助の姿が見られる様になりました。
 仇を討つ者と討たれる者は、ただ黙々と槌を振るいました。
 そして五年後、ついに青の洞門が完成したのです。
 禅海が堀り始めてから三十年目のその日、二人の目には、いくすじもの涙が光っていました。
 禅海は実之助に向き直ると、頭を下げて静かに言いました。
「実之助どの。
 今までよう、我慢してくれた。
 そしてよう、洞門作りを手伝ってくれた。
 心から、礼を言う。
 ・・・さあ、禅海には、もう思い残す事はない。
 約束通り、父の敵の首をお斬りくだされ」
「・・・・・・」
 その言葉に、一度は刀に手を伸ばした実之助ですが、実之助は禅海の手を固く握りしめると、そのまま江戸へ帰って行ったのです。

 現在、この洞門は広く舗装されていますが、しかし壁面には、禅海と実之助の槌の跡が所々に残っているそうです。

 

おしまい

 

ふりがな

 

聴: 

 

 

青の洞門(どうもん)

 

青の洞門

 山国川やまくにがわにのぞむ断崖だんがいの耶馬渓やばけいの競きおい秀峰しゅうほうは、むかしから交通こうつうの難所なんしょとして知しられていました。

この絶壁ぜっぺきの中腹ちゅうふくに青あおのくさり渡わたしと言いうのがあるのですが、岩いわ壁かべに沿そってつながれた丸太まるたの上うえをくさりを伝つたって渡わたる物ものなのです。

 

 樋田といだから青あおへ行いくには、どうしても通とおらなければならない道みちで、今いままで足あしを踏ふみはずして命いのちを落おとす人馬じんばが数多かずおおくいました。
 これはこの
絶壁ぜっぺきに道みちを作つくった、二に人にんの男おとこのお話はなしです。

 
岩いわ壁かべに、いつの頃ころからか、一いち人にんの僧そうが槌づち(つち)を振ふるっていました。
 
僧そうの名なは禅海ぜんかいといい、かつては江戸えどで中川なかがわ四郎しろう兵衛ひょうえという武士ぶしの傭人ようにん(ようにん→やとわれた人ひと)として仕つかえる男おとこでした。
 ところがある
時とき、ささいな事ことで主人しゅじんを殺ころしてしまい、その罪滅つみほろぼしに禅海ぜんかいという僧そうになって、諸国しょこく行脚あんぎゃの旅たびに出でたのです。
 
四国しこくの八はち十じゅう八はちカ所かしょを巡めぐり、九州きゅうしゅう、豊後ぶんごの樋田ひだ村むらにたどり着ついた禅海ぜんかいは、この絶壁ぜっぺきのくさり渡わたしを見みて、
「これこそが、
求もとめておった道みち。罪つみを償つぐなうのは、ここしかない」
と、
洞門どうもんを掘ほる決心けっしんをしたのです。
 
享とおる保ほ二に十じゅう年ねんに最初さいしょの槌づちを振ふるって以来いらい、禅海ぜんかいは毎日まいにち洞門どうもんを掘ほり続つづけました。
 
最初さいしょは禅海ぜんかいを厄介やっかい者しゃ扱あつかいしていた村人むらびとも、やがて禅海ぜんかいを応援おうえんする様ようになりました。
 そしてそれから
五ご年ねんたち、十じゅう年ねんたち、ついに二に十じゅう五ご年ねんが過すぎたある日ひ、一いち人にんの若者わかものが禅海ぜんかいを探さがして青あおの洞門どうもんにやって来きました。
 その
若者わかものは禅海ぜんかいが殺ころした、中川なかがわ四郎しろう兵衛ひょうえの長男ちょうなんの実じつ之これ助すけ(じつのすけ)だったのです。
 
成長せいちょうした実じつ之これ助すけは、父ちちの敵てきを討うつ為ためにここにやって来きたのです。
「お
主あるじが禅海ぜんかいか。以前いぜんの名なを福原ふくはら市し九郎くろうに相違そういあるまいか」
 
実じつ之これ助すけの声こえに、槌づちを打うつ禅海ぜんかいの手てが止とまりました。
「いかにも。して、そこもとは」
「それがしは
中川なかがわ四郎しろう兵衛ひょうえの子こ、実じつ之これ助すけと申もうす。二に十じゅう五ご年ねん前まえに殺ころされた、父ちちの仇きゅうを討うちに来きた」
 そう
言いわれて見みれば、たしかに父ちちの面影おもかげがあります。
「おお、
中川なかがわさまのご子息しそくか。いかにも禅海ぜんかい、そこもとの父ちちをあやめた市し九きゅう郎ろうに相違そういありませぬ。じゃが、何なにとぞお待まち下くだされ」
 
禅海ぜんかいはそう言いうと、実じつ之これ助すけに深々ふかぶかと頭あたまを下さげました。
「なに! このごに
及およんで命いのちごいか!」
 
怒鳴どなる実み之の助すけに、禅海ぜんかいは静しずかに言いいました。
「いえ、
命いのちごいではありませぬ。ただ、禅海ぜんかいが罪滅つみほろぼしに掘ほっておる、この洞門どうもんが貫通かんつうするまでお待まちいただくわけにはいくまいか」
「
罪滅つみほろぼしか・・・。噂うわさは聞きいておる。では少すこしでも早はやく終おわるよう、手伝てつだってやろう」
 その
日ひから、禅海ぜんかいと並ならんで槌づちを振ふるう実み之の助すけの姿すがたが見みられる様ようになりました。
 
仇きゅうを討うつ者ものと討うたれる者ものは、ただ黙々もくもくと槌づちを振ふるいました。
 そして
五ご年ねん後ご、ついに青あおの洞門どうもんが完成かんせいしたのです。
 
禅海ぜんかいが堀ほりり始はじめてから三さん十じゅう年ねん目めのその日ひ、二に人にんの目めには、いくすじもの涙なみだが光ひかっていました。
 
禅海ぜんかいは実じつ之これ助すけに向むき直なおると、頭あたまを下さげて静しずかに言いいました。
「
実み之の助すけどの。
 
今いままでよう、我慢がまんしてくれた。
 そしてよう、
洞門どうもん作づくりを手伝てつだってくれた。
 
心こころから、礼れいを言いう。
 ・・・さあ、
禅海ぜんかいには、もう思おもい残のこす事ことはない。
 
約束やくそく通どおり、父ちちの敵てきの首くびをお斬きりくだされ」
「・・・・・・」
 その
言葉ことばに、一いち度どは刀かたなに手てを伸のばした実み之の助すけですが、実じつ之これ助すけは禅海ぜんかいの手てを固かたく握にぎりしめると、そのまま江戸えどへ帰かえって行いったのです。

 現在げんざい、この洞門どうもんは広ひろく舗装ほそうされていますが、しかし壁面へきめんには、禅海ぜんかいと実み之の助すけの槌づちの跡あとが所々ところどころに残のこっているそうです。

おしまい

 

 

NHẬN XÉT

 
 

 
 
 
 
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